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デイキャンプ場の利用について

権現堂公園デイキャンプ場ご利用案内

デイキャンプ場

バーベキュー利用のできる、有料スペースです。予約のない方はご利用できません。

営業時間

午前10時から午後4時まで(後片付けの時間を含みます。)
【休園日】
年末年始は休業します。

(※注意)
【桜まつり期間中】
桜まつり期間中は、駐車場は有料となります。
また、相当な混雑(人・車)が予想されますので、運営上デイキャンプの運営を中止させていただく場合がありますのでご注意ください。

区画数

・テーブル区画(12区画):大人6人掛けのテーブルとイスが設定されています。
・フリー区画(8区画):フリースペースです。

区画はディキャンプ場区画配置図で確認できます。1区画 およそ10m×10m

利用人数

1区画あたり8人まで(小学生以上)
未就学児は人数に含めない。

利用料金

1区画(テーブルあり):1,500円(税込) / 1日
1区画(テーブルなし):1,000円(税込) / 1日

申込方法

・権現堂公園管理事務所(0480-44-0873)まで直接電話で申込お願いします。
・使用開始は2022年11月1日からとなります。
・11月中使用の予約受付は10月24日からとなります。その後、12月以降は前月の1日から受付致します。(例:12月1日使用は11月1日予約開始)
※先着順となります。

「埼玉県県営公園予約サービス(外部リンク)」からお願いします。
あらかじめ利用者登録が必要になります。

利用者登録をされて本人確認が済んだ方は、「埼玉県県営公園予約サービス(外部リンク)」から予約を行ってください。
予約は利用日の前月の1日から受け付けます。

当日利用のみ電話(0480-44-0000)による予約を受け付けます。
※先着順となります。

利用上の注意

機材のレンタル

バーベキューコンロやタープ等のレンタルがあります。ご希望のお客様はデイキャンプ場の予約終了後、予約申込書をダウンロードしてFAXまたはメール添付で申し込んでください。なおレンタル品は数量に限りがありますので、あらかじめご了承ください。

品目
仕様/ブランド
レンタル料/日(税込)
テントタープ
パーティシェードライト300/コールマン
1,500円
コンロ
クールスパイダー プロ/L コールマン
1,000円
チェア
サイドテーブル付デッキチェア コールマン
500円
テーブル
ラタンウッド調ガーデンテーブル 182x74x74cm
1,000円
鉄板
52×31.5×3.5cm(板厚6mm)ゼオール
1,000円

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。