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公園について

県営権現堂公園は、桜の名所として親しまれている幸手権現堂桜堤や隣接する権現堂調整池の水辺空間を活かし、
「レクリエーションの拠点ならびに水とのふれあいの場となる公園」を目指して埼玉県が整備を進めています。

この公園は、多目的運動広場の1号公園と、歴史と文化と緑の3号公園、幸手権現堂桜堤の4号公園、
レクリエーションを目的とした2号公園のそれぞれの特色を持った4か所の公園で構成されております。 

多目的運動広場(1号公園)

多目的運動広場(1号公園)は、幸手市と久喜市(旧栗橋町)にまたがるゾーンで
県営権現堂公園の一番北側に位置しています。
平成23年4月に全面開園したこの公園は、少年野球やグラウンドゴルフが楽しめる球技広場や、
一面芝生の多目的広場、大型帆船などの遊具があり、休日には多くの子ども連れの家族で
賑わっています。

有料施設(球技広場)について

  • 全面
    1,280円
    ・少年野球
    ・ソフトボール
    ・グランドゴルフ
    ・少年サッカー
    ・スポーツレクリエーション
  • 半面
    640円
    ・グランドゴルフ
    ・スポーツレクリエーション
  • 1/4面
    320円
    ・グランドゴルフ
    ・スポーツレクリエーション

※ 利用時間は1時間当たり。
・野球、ソフトボール及びサッカーの利用の場合は、全面の利用とする。
・県外に住所を有する者に係る利用料金は、上記の金額にそれぞれ当該金額の100分の50に相当する額を加えた額とする。
・「障害者の利用にかかる公の施設の使用料及び利用料金の減免に関する条例(昭和58年埼玉県条例第8号)」及び「障害者の利用にかかる公の施設の使用料及び利用料金の減免に関する
条例施行規則(昭和58年埼玉県規則第32号)」の規定の該当者が使用する場合は、
免除します。該当者とは、「身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳のいずれかの所持者及びその介護者1名」をいう。
・国又は地方公共団体が主催する事業に使用する場合は、免除とすることができる。
・国又は地方公共団体が共催する事業に使用する場合は、表の金額の半額とすることができる。
・地方公共団体が運営する実行委員会主催事業に使用する場合は、免除とすることができる。
・学校教育法による学校及び児童福祉法にいう児童福祉施設が主催する行事については、
表の金額の半額とすることができる。
・マスコミ等(新聞、テレビ、ラジオ、出版物、通信情報サービス等)に使用する場合に
おいて、権現堂公園のPRに資すると認めるときは、免除することができる。

お申込方法

・利用日の1ヵ月前の初日から予約を受け付けています。
・権現堂公園管理事務所(1号公園)にお申し込みください。
・受付時間は開園時間と同じです。
・利用料の納付は利用日当日に現金にて管理事務所の窓口でお支払いください。

レクリエーション公園(2号公園)

令和4年10月16日に開園予定の2号公園はレクリエーションを目的とした公園で、洗い場設備のある北側のデイキャンプ場、4基の大型遊具のある南側の2拠点で家族、グループでゆったりと1日を過ごしていただけます。また、防災公園としてヘリポート、8基のかまどベンチを備えて
おりますので災害の際の一次避難場所となります。

令和4年10月16日に開園した2号公園はレクリエーションを目的とした公園で、洗い場設備のある北側のデイキャンプ場、4基の大型遊具のある南側の2拠点で家族、グループでゆったりと1日を過ごしていただけます。また、防災公園としてヘリポート、8基のかまどベンチを備えて
おりますので災害の際の一次避難場所となります。

万葉の公園(3号公園)

「歴史と文化の薫る万葉の公園」をテーマにした緑の多い公園です。
梅、ハギ、フジバカマ等の万葉の花を愛でながら憩いの場としてご利用ください。

幸手権現堂桜堤(4号公園)

関東の桜の名所として有名な幸手権現堂桜堤は、約1,000本のソメイヨシノが1kmにわたって
咲き誇り、堤の周辺の菜の花とのコントラストは見事で、花見を楽しむ来園者で賑わいます。
また、6月には色とりどりの紫陽花、9月には真っ赤に染まる曼珠沙華(彼岸花)、
1月には白い可憐な約50万球の水仙が見ごろを迎え、1年を通して権現堂桜堤をお楽しみいただけます。
現在、ソメイヨシノの長寿命対策と河津桜の植樹に力を入れています。

桜まつり

権現堂桜堤では、毎春3月下旬~4月上旬にかけて、「桜まつり」を開催しています。

この時期の権現堂桜堤は、桜のトンネルの淡いピンクと、菜の花の黄色のコントラストが見事です。
堤には物産店も出店し、たくさんの花見客で賑わいます。

あじさいまつり

桜で有名な権現堂桜堤ですが、「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、
ボランティアの方たちを中心に、あじさいの花が植えられました。

今では100種、約10,000株に増えたあじさいで、6月の権現堂桜堤を色づかせます。
華やかな桜とは違った美しさで、雨の中しっとりと咲くあじさいをご堪能ください。

曼珠沙華祭り

9月~10月にかけ、権現堂桜堤が真っ赤に染まります。

桜だけではなく四季折々の花をと思い、平成12年より、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)を植栽しました。

曼珠沙華は、秋のお彼岸の時期に咲く事から彼岸花とも呼ばれています。どちらかと言うと彼岸花と言う
呼び名の方がなじみがあるかもしれません。

秋の訪れとともに土手一面に咲く曼珠沙華。市民ボランティアが大切に育て現在では約300万本にまで
増えました。緑の中に赤く咲く曼珠沙華は、まさに癒しの空間です。

水仙まつり

NPO法人幸手権現堂桜堤保存会の会員が一生懸命植え大切に育てました。

寒い冬に凛と咲く白い可憐な水仙を是非見にきて下さい。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。

大正9年

権現堂(行幸)堤に桜の植樹が行われた。3,000本、長さ6km。当時の事は国民新聞(大正9年11月25日付け)に紹介される

大正10年

権現堂川では、舟運が盛んに行われ、大正から昭和初期にかけて三十石積みの荷船から百三十石積みの高瀬舟まで総数三十艘もの船があり、物資の集積・集散の拠点として栄えた。

大正11年

大正9年に植えられた桜に花もつき、堤上からは富士山や筑波山を眺める事ができ、春にはそよ風に揺れる油菜や若草の中に安らぎを求めて人々が集まり花見をするようになる。

大正13年

権現堂堤の桜も各地に紹介され、脚光を浴びるようになり、露店や屋台も軒を連ね、多くの人手があり賑やかになる。

大正14年

権現堂堤の桜を見ようと周辺各地から多数の人手があり、中には東京より江戸川を船で上り、花見に来る客もいた。

昭和3年

桜の花も見事に咲き、露店も数多く並び祭りの賑やかさが伺うことができる。

昭和7年

露天商も軒を連ね、小屋がけをし芝居などの興行も行われた。幸手の町中には検番があり芸者を呼ぶ人たちもいた。
この頃には、東武線浅草駅から幸手駅まで臨時電車が出た。

昭和4年

東京日日新聞 幸手権現堂(行幸)堤の桜まつりを紹介。
東武線幸手駅開設 そこぬけ屋台を引き回し、桜堤にくり出す。

昭和7年

露天商も軒を連ね、小屋がけをし芝居などの興行も行われた。幸手の町中には検番があり芸者を呼ぶ人たちもいた。
この頃には、東武線浅草駅から幸手駅まで臨時電車が出た。

昭和8年

幸手青年団 権現堂(行幸)堤 観桜事業を行う。
救護、交通整理、観桜客の便宜、湯茶の接待等
(手当て・日当四十銭、幸手町補助金・百円、商工会補助金・十円、茶菓子代・一日五銭)
(打ち上げ・自転車旅行 筑波山 雨引観音 笠間稲荷神社)

昭和10年

栗橋より西関宿にいたる桜堤 東京市 緑地区域に予定される。
幸手町青年団 花見の際交通整理・清掃などを行う。

昭和15年

周辺各地には、製糸工場などが多く、桜の季節には工場の小旅行として幸手駅より桜堤まで行列ができた。

昭和18年

戦争中でも当地では花見は実施していた。

昭和20年

戦後米軍の幸手進駐にて桜を伐採する。
(燃料として全戸に配給)

昭和24年

桜の植栽を始める。幸手町長栗田亀造氏、公民館職員など。
(3,000本の苗木を国道4号線から県道にかけて約1kmの堤に植えられる。現在約1,000本が残っている。)

昭和26年

幸手町保勝会によって各種行事を計画、実施した。ハイキングコースの設定・桜堤開き・演芸会・演奏会・舞踏大会など。

昭和28年

埼玉新聞が行った「県下“観光50選”」に推薦され、30選に入選した。これを機会に保勝会が桜60本を増殖。

昭和29年

埼玉新聞主催「県下桜コンクール」第4位、東関脇に。

昭和30年

雪洞(ぼんぼり)に電灯を点けたため夜桜の鑑賞も。また、観光協会が設立された。会長 殿塚町長、副会長 中村昌功会長

昭和32年

全日本写真連盟・朝日新聞浦和支局共催の写真撮影会を実施。

昭和34年

郷土芸能の公開も行われる。川崎の囃子と面神楽・千塚の手踊り・一ッ谷の飴屋踊り・関宿囃子など。

昭和39年

幸手青年団によりバンド演奏も行われお花見の人出も増した。

昭和40年

民謡踊り大会チンドン屋大会、写生大会、俳句大会、撮影大会、素人のど自慢大会、ヘラブナ釣り大会、川柳大会、素人演芸大会、大演芸会等の各種の行事が行われた。

昭和45年

桜の花は最高、しかし、人出は最低。地元の人が大宮、野田、上野方面に花見に出かけるので、観光協会では権現堂堤の桜の宣伝に力を入れた。

昭和58年

行幸堤・権現堂堤が幸手町指定文化財(名勝)となる。

昭和59年

観光協会によって「さくら娘コンテスト」が行われる。

昭和62年

北公民館オープン。「さくら娘コンテスト」は「ミスさくらコンテスト」に。

昭和63年

周辺農地に菜の花を作付け。19,000平方メートル(約19反)

平成6年

幸手市で”桜10万本”運動を開始。

平成8年

あじさいの苗を植え始める。

平成12年

第12回”桜サミット”が幸手市で開催される。

平成13年

第1回あじさい祭り開催。

平成18年

第1回曼殊沙華まつり開催。

平成20年

県営「権現堂公園」となる。

平成22年

第1回水仙まつり開催。

平成25年

ヤクシマヤギの飼育を開始。

平成26年

河津桜の植樹を開始。

令和元年

第27回”桜サミット”が幸手市で開催される。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。