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アクセス

県営権現堂公園の各公園へのアクセスは下記をご覧ください。

みなさまのご来園、心よりお待ちしております。

多目的運動広場(1号公園)

〒349-1105
埼玉県久喜市小右衛門50

【電車でお越しの方】
東武日光線「南栗橋駅」から約1.5キロメートル

【車でお越しの方】
国道4号小右エ門(南)交差点

レクリエーション公園(2号公園)

〒340-0101
埼玉県幸手市外国府間170番地

【電車でお越しの方】
東武日光線「南栗橋駅」から約2.0キロメートル

【車でお越しの方】
東京方面から国道4号権現堂桜堤の交差点から
二つ目の信号

幸手権現堂公園(3号公園)

〒340-0112
埼玉県幸手市権現堂996

【電車でお越しの方】
東武日光線「幸手駅」から約2.8キロメートル

【車でお越しの方】
東京方面から国道4号権現堂桜堤の交差点を過ぎて
中川の橋を渡り、すぐ右折400メートル直進

幸手権現堂桜堤(4号公園)

〒340-0103
埼玉県幸手市内国府間887番地3
(サイタマケンサッテシウチゴウマ)

【電車でお越しの方】
東武日光線幸手駅より朝日バス「五霞町役場」行きバスに乗車し、「権現堂」で下車してください。(片道 180円)
幸手駅から約2.5キロメートルです。

【お車でお越しの方】
高速道路をご利用してお越しのお客様へ

「幸手IC」から約10分
「久喜IC」から約20分

アクセス「車」 | 幸手市観光協会
http://www.satte-k.com/access/car.html

カーナビをご利用してお越しのお客様へ

カーナビをご利用のお客様は、交差点名「権現堂桜堤」または、権現堂公園の隣にあります「幸手市北公民館」を設定して下さい。北公民館の反対側が権現堂公園4号公園及び駐車場となります。

■「幸手市北公民館」
埼玉県幸手市大字内国府間(うちごうま)867番地
電話: 0480-42-6221

■駐車場利用時間
4月~8月: 午前8時30分~午後7時まで
10月~2月: 午前8時30分~午後5時まで
3月・9月: 午前8時30分~午後6時まで
■駐車場料金
無料(桜まつり期間を除く)
※車上あらしにご注意ください。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。