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幸手桜まつり期間中の団体バス駐車場予約について

幸手桜まつり期間、会場周辺の渋滞緩和のため、バス専用の駐車場を整備いたしました。
幸手桜まつり期間中(前後1週間程度を含む。)の、バスご利用には事前予約が必要となります。

予約期間

令和7年 3月 22日(土)~ 4月 13日(日)

※桜まつり期間は令和7年 3月 26日(水)~ 4月 9日(水)ですが前後を含めた予約となります。

バス駐車場

桜まつり第3駐車場
( 桜まつり駐車場案内図をご参照ください。 )

予約枠及び駐車可能台数

9:00~12:00

駐車台数 10台

12:00~15:00

駐車台数 10台

15:00~18:00

駐車台数 10台

※時間枠は指定となります。指定枠を超えて駐車する場合は、滞在時間に応じて指定時間枠を追加して予約をしてください。
 例)11:00~14:00を予約する場合
 1・2の枠の予約が必要となります。2枠分の駐車料金となります。

※原則、団体バスの駐車は事前予約制のため、予約のない場合は駐車することができません。
但し、当日、バス駐車場に空きがある場合には、駐車を許可します。その場合でも事前に電話連絡をお願いします。

※入出庫を含めた3時間枠となっています。時間厳守でお願いします。

※毎年、幸手桜まつり期間中は交通渋滞が発生します。余裕を持った行程での入庫をお願いします。

駐車場料金

指定された時間枠毎 1台 5,000円
※支払いは、利用日当日、現金のみとさせていただきます。

受付開始日

令和7年 2月 3日(月) 9:00~
※申し込み方法をご確認ください。
※電話は平日の9:00~17:00までです。土日祝は予約を受付しておりませんのでご注意ください。

予約枠及び駐車可能台数

01|電話にて仮予約

必ず電話をしてからの予約となります。

02|申込書にて本予約

仮予約後、「第92回幸手桜まつりバス駐車場予約申込書」を送付してください。本予約となります。

03|確認書類

本予約後、確認書を送付いたします。
なお、利用日当日は、この確認書をご持参ください。

※受付開始前は一切予約をお受けできません。

※受付開始時は電話が混み合う事が予想されます。つながりにくくなりますので、ご了承ください。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。