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複合遊具(プレイウォールとスライダー)

2号公園の南エリアには、カーボンスライダー、モーグルヒル、ネットとロープをよじ登るプレイビートの3基の大型遊具の他に、スライダー(滑り台)と、各スライダーを結ぶプレイウォールで構成される複合遊具があります。 この複合遊具は権現堂公園オリジナルの造形遊具ですので、使い方遊び方に多少戸惑いがあるかと思います。以下の注意事項をご留意の上お楽しみください。

スライダー:

1.普通の滑り台と違い、中央で滑り出すとスピードの調整が出来ません。

2.初めての人や慣れていない人、スピードが怖い人、自信のない人はスライダーの端から滑って徐々に慣れてください。

3.体の大きな人や大人の方ほどスピードが出て危険です。注意してください。

4.滑ってくる人とぶつかって危険ですので、すべり面の途中から入ったり、下から登ったり、すべり面を立ったり歩いたりしないでください。

5.滑り降りたらそのまま前方へ速やかに滑り面から離れてください。

6.前の人が滑り面を出たのを確認してから滑ってください。

7.二人以上で手をつないだり、縦になって滑らないでください。

8.幼児を抱いて滑るのはやめてください。

9.段ボール紙などをおしりに敷いて滑らないでください。スピードが出て危険です。

10.体をひねらずまっすぐにして滑ってください。体をひねるとバランスを崩して危険です。

11.金属類をつけた服装で滑らないでください。

12.ガイドバーにぶら下がったり、鉄棒遊びをしない。

13.悪い滑り方や遊び方をしているところを見かけたら注意してください。

プレイウォール:

1.飛び乗らない、飛び降りない、飛び込まない。

2.ふざけたり、他人を押したり、落としたりしない。

 

その他、遊具の使用全般の注意事項です。

1.脱げにくい靴をはく。

2.マフラーなど引っ掛かり易いものはとる。

3.上着の前を開けっぱなしにしない。

4.ランドセルやカバンは置いて遊ぶ。

5.紐付き手袋をしない。

6.遊具にひもを巻き付けない。

7.濡れた遊具で遊ばない。

8.壊れた遊具で遊ばない。

9.上から物を投げない。

10.飛び降りない。

11.飛び乗ったりしない。

12.順番を守る。

13.小さな子に気を付けよう。

14.遊具を壊さない。

15.自転車で入ってはいけません。

16.ペットをいれてはいけません。

17.表面を鋭利なものや傘などで傷つけたりしない。

18.注意事項を理解して利用者の自己責任の上で安全に遊びましょう。

遊具の異常、破損等を見つけた場合はすぐに管理事務所にご連絡ください。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。