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フジバカマ自生地について

「幸手自然愛護会」が保護をしているフジバカマ自生地

フジバカマ(藤袴)とは

キク科ヒヨドリバナ属の多年草で、葉は3裂して光沢があり、
草丈は、1~1.5mほどで、淡紫色の小さな花を咲かせます。

フジバカマの名前の由来

「フジバカマ」名は、花色が藤色で個別の花の形が袴(飛鳥・奈良時代の古代の袴、今でいうズボンのスネの部分)に似ていることからこの名前になったというのが一般的です。ただ、万葉集で既に「ふじばかま」とよばれていることから、名の由来は違っていた可能性もあります。

絶滅の危機に瀕するフジバカマ

万葉集に詠まれた秋の七草の一つです。花は藤色がかった白で、平安時代から河原や野辺に咲く山野草として親しまれてきました。
乾燥させた藤袴は香料としても用いられ、往時の女性達はフジバカマを香袋に入れ、十二単にしのばせていたようです。

やどりせし 人のかたみか 藤袴 わすられがたき 香ににほいつつ
(我が家に泊まっていった人の残した形見か、藤袴よ。忘れがたい香にしきりに匂って…)
紀貫之・古今和歌集

フジバカマの香りを呼んだ代表的な歌です。しかし、近年フジバカマは、河川改修などによる環境の変化で減少し続け、環境省・京都府から保護、保全の対象として扱われています。園芸種(フジバカマとヒヨドリバナなどが交配したもの)は出回っていますが、野生種は、すっかり姿を消してしまいました。

フジバカマは環境省の準絶滅危惧種に指定されています。

フジバカマお守り隊とは

権現堂のフジバカマは、従来からこの自生地で当時「幸手自然観察クラブ」と称していた会員有志が随時保護活動をしていました。
その後、会の名称を「幸手自然愛護会」と改称し、平成17年5月より活動を開始し今に至っています。通称「フジバカマお守り隊」と称し4月から10月までを通して毎月第2火曜日に除草等を中心に保護活動をしています。

フジバカマを守るには

フジバカマの生える環境である草原は、毎年草刈りが行われることによって草原としての状態が続きます。草を刈らないでいると、2、3年で木が生えてきてやがてそこは森になってしまいます。
森にはフジバカマは住めません。
何年も草原の状態が続くところといえば、今では川の堤防ぐらいしかありません。
その堤防というのは、まさに人間によって管理されている場所です。
本来、自然の草原に生えているはずのフジバカマが、人間の管理する堤防だけに生えているということは、いつも草原になっている環境が他にないことを意味します。
行き場所がなくなった絶滅のおそれのあるフジバカマを守るには、人間が草を刈り続けなくてはならないという、ちょっとおかしな関係があるのです。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。