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設備紹介

県営権現堂公園では4つの公園内に様々な遊具や施設、売店を設けています。

小型遊具から大型遊具、キャンプ施設など、お子様はもちろん、
大人の方まで自然の中でお楽しみいただけます。

球技場

1号公園

少年野球や少年サッカー、ソフトボール、グラウンドゴルフなど、目的に合わせて、全面、半面、1/4面で区分利用できます。

大型遊具

1号公園

子どもに大人気の大きな帆船遊具。船長になった気分で遊んでみませんか?

多目的広場

1号公園

全面芝生が敷き詰められた広場なので転んでも安心。こどもがボールなどを追いかけて、思いっきり走りまわっています。

ジョギングロード

1号公園

多目的運動広場の外周約600メートルに一部途切れておりますが、膝に優しいゴムチップが敷いてあります。

プレイビート

2号公園

下がネットでぴょんぴょんエリアで、上がロープをヨジヨジエリアだよ。
バランス感覚を鍛えるにはもってこい。

ロングカーボンスライダー

2号公園

幅が4mもあるので10人が一度に一緒に18mもすべれるよ!

ビッグモーグルヒル

2号公園

上の斜面のホールドを下って、下のモーグルヒルを目指してね!

プレイウォール

2号公園

権現堂公園オリジナルの造形遊具です。
滑り台、その他、使い方は自由です。
自分で見つけてくださいね。

ヘリポート

2号公園

 準備中

デイキャンプ場1

2号公園

デイキャンプ場2

2号公園

デイキャンプ場3

2号公園

洗い場を3か所備えたフリーユーススペースです。ひとつの区画が平均100平方m以上あり、たいへんゆったりと使っていただけます。イス付テーブルを備えたサイトが12区画ありますのでタープを張ってバーベキュー、持ち込みのテントでデイキャンプ、宿泊キャンプの予行演習、リモートオフィス、料理を持ち込んで食事会、チェアリングで読書等、使い方は自由です。サイトの予約は使用ルールを参照ください。(テントタープ、バーベキューコンロ、テーブル、椅子、鉄板の貸し出し、炭の販売もあります)

上体ひねり

3号公園

普段からひねりの可動域を大きくしておくと、ギックリ腰になる可能性を低減します。

ぶらさがり

3号公園

老化の指標のひとつが握力の衰えです。 何秒ぶら下がれますか?

背のばしベンチ

3号公園

前屈運動は普段やっていても、後屈運動はなかなかできません。頭まで付けるのは結構きついですよ。

展望の丘

3号公園

桜の季節には4号公園の桜堤が北の端から南の端まで望めます。

花壇

3号公園

ささやかな花壇ですがパンジー、ルピナス、百日草、コスモス等、四季折々の花を育てております。

峠の茶屋(売店)

4号公園

桜堤のほぼ中央に位置しており、花の鑑賞の合間のオアシスとなっております。焼きたてのパン、ドリンク、地元のお土産等を販売しておりますので園内散策の一休みにお立ち寄りください。

ヤギ小屋

4号公園

小屋周辺の除草にメス3頭のヤクシマヤギが役立っております。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。