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關於日間露營地的利用

權現堂公園日間營地指南

日間露營地

這是一個付費空間,您可以在那裡使用燒烤。沒有預約的人不能使用。

營業時間

上午 10:00 至下午 4:00(包括清理時間)
【休息日】
年末年初休息。

(※筆記)
[櫻花節期間]
櫻花節期間停車收費。
此外,請注意,由於預期的擁堵(人和汽車),我們可能會取消日營的運營。

隔間數

・桌子部分(12部分):提供可容納6人的桌子和椅子。
・空閒部分(10個部分):這是一個只有可用空間的部分。

請檢查下面佈局圖中的地塊佈局。

用戶數

每個部分最多8人(小學生及以上)
學齡前兒童不計入人數。

使用費

1段(附桌子):1,500日元(含稅)/1天
1段(無桌子):1,000日元(含稅)/1天

申請方法

・預訂系統已於2020年3月1日起更新。 請在以下預約網站註冊為使用者。
之後,您需要在公園櫃檯辦理身份驗證手續,因此請攜帶可以驗證您身份的文件(個人編號卡、駕照、健康保險證等),
並就近辦理手續公園管理辦公室,請。
・如果您已經在使用預訂服務,則可以使用與之前相同的 ID。
密碼的四位數字前面將自動添加四個 0(零)。
例如,對於 abc4,它是 0000abc4。
・4月預訂後將優先考慮抽籤預訂。 詳情請參閱下面的傳單。

 傳單(PDF)

從您想要使用的月份前一個月的 22 日起,可進行先到先得的預訂。
・當天上午10點之前均可在系統上預訂。
・如果使用當天下午 1:00 之前接待處未關閉,並且我們沒有透過電話 (0480-53-8787) 或電子郵件 (daycamp@gongendo.jp) 與您聯繫,
未經許可將被取消,您將受到處罰。

・預定係統原定於 2020 年 3 月 1 日起更新並運行,但由於故障,運行至 2 月的系統將於 3 月 24 日起恢復運行。
・如果您已經使用預訂服務,則可以使用與之前相同的 ID。
・登入密碼為您兩個月前所使用的4位系統密碼。
即使您在3月1日更換為新系統,也請使用與2月之前相同的4位密碼。
・新系統將於2020年11月1日下午1點開始運作 詳情請參閱以下埼玉縣主頁

https://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/yoyaku-system.html

・請在此預約。

(截止至 2020 年 10 月 25 日)

(2024 年 11 月 1 日下午 1:00 起)

使用注意事項

設備租賃

燒烤爐和防水布可供出租。 如果您想使用它,請在透過縣預訂服務預訂包裹的使用時一起在「附加設施」下進行預訂。請注意,出租物品的數量有限。

物品
規格/品牌
租金/天(含稅)
帳篷篷布
派對燈 300/科爾曼
1,500日元
煤氣灶
Cool Spider Pro/L 科爾曼(不含網。)
1,000日元
椅子
帶邊桌的躺椅 科爾曼
500日元
桌子
藤木風格花園桌182x74x74cm
1,000日元
鐵板
52×31.5×3.5cm(板厚6mm)沸石
1,000日元

※關於帳篷篷布,隔間的大小有限,請每個隔間使用一頂帳篷。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。