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關於行動許可費

關於自 2021 年 4 月 1 日起的行動許可費

非常感謝您使用我們的公園。
關於視頻拍攝,由於行為許可費中沒有規定,因此適用了攝影金額,但從2021年4月1日起,增加了“(包括視頻拍攝)”。
對於 4 月 1 日之後的電影拍攝,即使在 3 月 31 日之前接受使用申請,也將適用修訂後的規定。
另外,沒有關於收費設施的費用的補正。
感謝您的理解。

權現堂公園指定管理員
幸手權現堂櫻津保存會

行動許可

行動
分配
時價
新的價格
銷售貨物和類似行為
每平方米半天(4 小時內)
每平方米一天(4 小時後 8 小時內) 8 小時後
每隔一小時
※7日元
※14日元
※2日元
無修訂
節目
每平方米半天(4 小時內)
每平方米一天(4 小時後 8 小時內) 8 小時後
每隔一小時
※8日元
※17日元
※2日元
無修訂
專業攝影
每箱半天(4 小時內)
每箱 1 天(超過 4 小時至 8 小時)
超過 8 小時每增加一小時
※360日元
※720日元
※90日元
無修訂
商業拍攝(包括電影拍攝)**
每箱半天(4 小時內)
每箱 1 天(超過 4 小時至 8 小時)
超過 8 小時每增加一小時
14,800日元
29,600日元
3,700日元
無修訂
競賽、展覽、博覽會和類似活動
每平方米半天(4 小時內)
每平方米一天(4 小時後 8 小時內) 8 小時後
每隔一小時
※4日元
※8日元
※1日元
無修訂
廣告展示
每小時每 1 立方米
展示面積超過 8 小時
2,080日元
260日元
無修訂

公園的指定管理機構是NPO“佐特權現堂櫻津保存會”,是具有發票開立資格的公司。
註冊號碼:T8030005004845

* 關於以星號 (*) 表示的現行費用,在表中允許的活動中,“商品銷售和類似活動”、“娛樂”、“競賽、展覽、博覽會和類似活動”為 110/105 至上述數額乘以許可數量所得的數額。
*關於以星號 (*) 表示的當前費用,表格中列出的“商業攝影”費用將通過將表格中列出的費用乘以 110/108 來計算。
* 在行動需要的面積不到1平方米或者在那個面積有不到1平方米的零頭的時候,把那個零頭剪掉。
*在縣外有住所的人實施該行為時,金額為上述金額的50/100。
*“關於減少殘疾人使用的公共設施的使用費和費用的條例(埼玉縣條例 1983 年第 8 號)” 豁免適用於那些屬於減少豁免條例實施條例(埼玉縣)規定的人1983 年第 32 號規則)。任何筆記本的持有人和一名看護人”。
*國家政府或地方政府資助的項目可以豁免。
*用於國家或地方政府共同發起的項目時,可使用表中所示金額的一半。
*由地方政府運營的執行委員會贊助的項目可以豁免。
* 根據學校教育法的學校和兒童福利法的兒童福利設施舉辦的活動,可以支付表中所示金額的一半。
*如果媒體使用(報紙、電視、廣播、出版物、通信信息服務等)被認為有助於推廣權現堂公園,則可以豁免。
* 如果以上計算的金額少於 10 日元,則費用為 0 日元。另外,金額為10日元以上的情況下,如果金額有不足10日元的小數,則小數會被四捨五入。
** 關於表中所列的“拍攝業務(包括視頻拍攝)”,如果使用時間少於30分鐘,半天(4小時內)的費用將分成8等份,每30分鐘一次之後,添加分成 8 等份的量。

権現堂の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。

このためには、庄内川の締め切りや旧渡良瀬川流路締め切り、同年に築堤された権現堂村の堤など段階的に行われた河川の締め切りから、権現堂堤や権現堂川の成立がうかがわれます。

この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。

また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

文政9年(1826年)度重なる堤の決壊に困り、堤の補強に、上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えましたが根づかず、何度か試みましたが結局失敗に終わりました。

このころになると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)ころには、堤通りへ竹や木が植えられ雑木林の様になり、また、屋敷の様に堤を囲い、家作や荷 蔵を造作し、川岸場の便利に利用したり、作付けのための小段とその他を掘り返し、苗木を植え付けたり、野菜などの栽培もするようになりました。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を閲覧するため、権現堂堤の上にかごを止めさせ、金100 円が下賜された。村の人々がこのお礼に、堤の名を行幸堤としたい旨を奏上し許しを得た。また巡幸を記念して、この周辺を行幸村と称するようにした。

この頃、権現堂堤周辺は、見渡す限り平野で、堤上からは西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に刊行された後上辰雄氏によれば、権現堂堤の風光として 次のように記しています。「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等 と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

このように、権現堂堤は、遠い昔より人々の想いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、そのつどに修復を行い権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。
しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

昭和4年には、東武鉄道幸手駅の開設により、それまで周辺住民の生活を支えていた船運も衰退していくようになりました。
悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。